仕事始め


今日、2013年のスタートを切りました。
おかげさまで梶川眼科医院は、今年50周年を迎えます。
「瞳きらきら通信」の院長挨拶をこちらにも転用を致しました。

昭和38年6月、父・一平が、須磨区にある板宿で梶川眼科医院を開業した。
私はまだ幼稚園児で、中学生時代まで下町風情が溢れる板宿で過ごし、ずっと父の背中を見て育って来た。毎日、大勢の患者さんが来院され、さらに入院での手術もおこなっていたので、その激務ぶりに「医者って大変な仕事やなぁ」と幼心に感じていた。
私が高校1年生の頃、神戸市再開発のため想い出がいっぱい詰まった自宅兼診療所は、取り壊されることとなり、プレハブの仮設診療所を経て現在に至る。
平成3年1月、突然父が倒れた。父は直ぐさま入院となり、その頃、私は兵庫医科大学眼科の勤務医であったが、急きょ当院も手伝うことになった。私にとっては、全ての患者さんが新患である。自分の診察が出来る許容量を遥かに超えていた。当然の如く待ち時間は長くなり、「若先生の診察は遅いわね」という小声が聞こえて来る。ある日、「いつまで待たせるんや!!」の怒号に外来が凍りつく。一生懸命やっているのに。。。
悔しかった。情けなかった。
父の手術は無事に済んだものの、検査を進めていくうちに難病であることが解り、仕事への完全復帰は遠のく。当院の勤務医になってからは、如何に患者さんと向き合うのかを考え、まずスタッフ教育に力を入れることにした。当時、現在のようなユニフォームではなく白い割烹着を来ていたのには思わず笑え、身だしなみや言葉遣いなどの接遇から取り組んだ。
平成5年春先頃から父の容態が悪化し、入退院の繰り返し。5月1日、父は静かに息を引き取った。父と強い信頼関係のある患者さんが、果たして自分を信頼してくれるのか不安であった。しかし、その不安を他所に多くの患者さんが、眼科医としてまだまだ未熟である私を信頼し、引き続き来院して下さった。感謝、感謝、感謝である。
50歳を過ぎてから本当に良い出逢いが、山のようにあった。「何のために仕事をするのか?!」の問いかけは、自分の人生に大きな意味をもたらした。仕事のやり方よりも仕事の在り方、心の在り方の大切さを学んだり気付かされた。「院長が輝けば、スタッフも医院も輝く」この言葉を胸に“チーム梶川”の監督として患者様のため、スタッフのために今後も少しでもお役に立てればと思う。
今年、梶川眼科医院は、板宿で産声をあげて50年、私が父から院長を継承して20年になる。この間、色々な出来事があった。親子二代の長きにわたり“眼科かかりつけ医”として微力ながら地域医療に貢献して来れたのも、ひとえに苦楽を共に仕事をしてきたスタッフをはじめ、スタッフの家族、患者様、諸先生方、取引先など皆さまのおかげである。当院はどれだけ多くの方々のご縁に恵まれ、どれだけ支えて頂いたか解らない。本当に感謝の気持ちでいっぱいである。今年は、今まで以上に感謝の気持ちを伝えていきたい。